鶴彬句碑

かつて収監されていた大阪衛戍(えいじゅ)監獄跡の大阪城公園内に顕彰碑が建立され、
命日である2008年9月14日に除幕式が行われた。全国で4番目の句碑となる。

大阪市との合意に達した鶴彬碑建立



中心部に衛戍監獄と記されている大正13年の大阪パノラマ地図


《 すでにある鶴彬の句碑 》
枯れ芝よ団結をして春を待つ石川県かほく市、生誕の地
暁を抱いて闇にゐる蕾石川県金沢市、卯辰山公園
手と足をもいだ丸太にしてかへし岩手県盛岡市、松園観音墓地

鶴彬を語る(澤地 久枝)

「あの人は、最後の何年間おなかいっぱい物を食べた日がいったい何日あっただろう、とおもいますね。
 赤痢で、重湯とリンゴのしぼり汁しかのどを通らないというのに放置され、臨終になってから病院に
 かつぎこまれた。衰弱に次ぐ衰弱で、無残な死です。私は、戦争で孤立した島で餓死した人たちのことを
 取材しています。木の葉一枚につまずいて倒れそのまま死ぬ。そういう戦場の斃死をという以外にほかに
 表現はないと思ったんです。警察は謝れば出すのに、鶴彬は、結局志を曲げなかった。
 日中戦争が激しくなった38年9月14日に息を引き取った青年は反戦の筋を通し死んでいった。
 ずいぶん痛ましい、しかし見事な人生だと思います」

鶴彬略歴

《 鶴彬 略歴 》
1909年石川県河北郡高松町で出生、本名 喜多 一二
1923年高等小学校卒業、14歳
1924年柳名 喜多一児で「河北新聞」に川柳と詩を発表、15歳
1926年大阪市此花区四貫島の従兄・市郎の下宿に寄宿し町工場の労働者に、17歳
筆名(戸籍名と同じ) 喜多 一二
1928年高松町に帰郷。「高松川柳会」を設立し、プロレタリア川柳を主唱する。
高松川柳会への弾圧で一二ら5名検束、19歳。筆名を鶴 彬に
1930年第九師団金沢歩兵七連隊に入営、21歳。秋、手箱点検で「無産青年」が発見、重営倉に。
1931年いわゆる七連隊赤化事件主犯とされ大阪衛戍監獄に収監、
刑期1年8ヶ月、22歳
1934年高松町で川柳活動を再燃。この頃彼の数少ない短冊の大部分を書き残す、
25歳
1937年東京深川の木材通信社に就職。12月治安維持法違反で検挙、
中野区野方署に留置、28歳
1938年野方署で赤痢に、未釈放のまま淀橋区と豊多摩病院へ。
9月14日午後3時40分死去、29歳